7:「悲しい気持ち」

1999年12月
場所: Sバーン Frankfurter Allee駅(東ベルリン)
被害者: HIRO/Habibi

午前二時をちょうどまわったところだった。われわれを置き去りにしたまま暗闇に 小さく消えゆくSバーンの赤いテールランプをぼんやりと眺めながら、夜風が鋭く吹 き抜ける駅のホームで妙な胸騒ぎを覚えた。土曜日の夜、シェーネベルクに住む日本人の友人宅からの帰り道のことである。い つものように夕食に呼ばれ、久方ぶりに口にする寄せ鍋とあまりの居心地のよさにつ いつい長居をしてしまった。気がつくとすでに日付けが変っている。慌てて暇を告げ ると最寄りの駅からSバーンに飛び乗り家路を急いだ。ところが、本来ならば乗り換 えなしに一本で戻れるところを、些細なことで途中下車する羽目になってしまった。

フランクフルター・アレー。強引に訳してしまえば《フランクフルト(人)の並木 道》とでもなるだろうか。フリードリヒスハイン、リヒテンベルク両地区の境界にあ たる駅である。このホームに降り立ったのははじめてではなかった。地下鉄の五番線 との接続駅だから日中はわりと人の往来も多く、駅の横にできた真新しいショッピン グセンターなどはよく賑っている。プレンツラウアーベルクの自宅からSバーンで三 駅とそれほど離れてもいるわけでもない。ただ、付近には一人をのぞくと親しい友人 もおらず、とりたてて足を運ぶ機会もないため普段はほとんど縁がない。それどころ か、この界隈には正直なところできるだけ近寄りたくない理由がある。 
同じ旧東ベルリンにあたる地区でも、このあたりはまったく別世界の様相を呈して いる。不思議な間隔を空けて立ち並ぶ灰色の高層住宅群。ひどく退屈なその建築様式 にはDDR時代の面影が色濃く残り、どこから眺めても冷ややかでうらぶれた印象し か受けない。駅の周辺はここ数年の間にこぎれいになって少しはアカ抜けたが、それ でもクーダムやウンターデンリンデンの華やかさには程遠い。街を歩く人の顔つきで さえ、同じドイツ人とはまるで思えぬほどガラリと変わる。口数が少なく、寂しい表 情をした人が多い。日が暮れるとさらに殺伐とした風景が広がる。だだっ広い通りに は人通りがなく、規則正しく並ぶ無機質な街灯が、ただでさえ憂鬱な北の冬空をさら に暗いものにさせる。かつて共産政権の統治下にあった頃の冷たい闇が、ここにはそ っくりそのまま残っている。

時刻表を見ると次の電車まで三十分もある。仕方なくいっしょにいたドイツ人の女 の子とホームの端にあるベンチに腰を下ろして待つことにした。夜風がますます強く なってきた。ついさっきまで程よく酔って火照っていたはずの頬が、みるみるうちに 冷めていくのがわかる。五分とたたぬうちに会話もと切れがちになってくる。あちこ ちの窓を音もなく照らし出すクリスマス用の装飾ライトを二人してぼんやり眺めてい ると、ホームの反対側から騒がしい声が聞こえてきた。次第に大きくなる音のほうに 何気なく目をむけると、みな頭を見事に剃りあげた、四、五人の大柄なドイツ人の男 たちが缶ビールを片手にこちらに向かって歩いてくる。アーミー・ルックや簡素な革 のジャンパーに薄い色のジーンズ。俗に「スキンへッズ」と呼ばれる連中に間違いな い。あたりかまわず下品な笑い声を響かせては互いに小突きあっている。これはまず いことになった。

いやな噂は何度も耳にしていた。ベトナム人の少年が走行中のSバーンから突き落 とされた。黒人の男性が集団でひどい暴行を受けた。もちろんそれらは、「極右」も しくは「ネオナチ」と称する集団による被害に関するものである。かつてよりメディ アを賑わしてきたこれらの事件は、最近でもそれほど珍しいことではない。自分でも こういった人種を目にしたことは数限くある。ただし、それはいつも白昼の、それも 行き交う無数の人込みの中であった。

恐れていたように、かれらは徐々に私のほうに目をむけ始めた。離れたところにも いくつかの人影が見えるが、そちらにはすこしも関心を示していない。どうやらこの 限られた空間において、外国人は私一人であるようだ。

《ベトナムのタバコ密売人》
《中華風ヤキソバいっちょう》
《チン・チャン・チュン》
《吊り目野郎》
《ブルースリー、かかってこい》
《サヨナラ》

アジアを卑下する言葉がいくつも聞こえてくる。考えられるだけの単語を並べたて て、強引にこちらの気を引こうとしている。はじめは聞こえない振りをして真正面の 家並みを眺めていたのだが、一向にやまないあからさまな悪態にたまらずちらりと目 をやると、先頭に立って一番大きな声を出していた男が仁王立ちになって私のほうを 凝視している。目が合った。彼はニヤニヤ笑いながら、《乾杯》と言って持っていた ビールの缶をかざす。私も仕方なく、先ほど自販機で買ったコーラの缶を軽く挙げて 答えた。すると、こちらの反応をみてまた他の連中とふざけあっている。なおも聞く に耐えない嘲笑は続く。彼らの狙いはわかっていた。私が突っかかってくるのを待っ ている。不思議と恐怖感はなかったが、横にいた友達が下手に巻き込まれることだけ は避けたかった。
そのうち、さきほどのリーダー格の男が横に腰を下ろしてきた。取り巻きも後に続 いてベンチの周りを囲んだ。最初は気づかなかった女性の姿も二人ほど見える。種類 はわからないが、大柄な黒の闘犬を連れている。頬がこけるほど痩せた顔や瞼を黒く 縁取った趣味の悪い化粧が魔女を思わせる。みな威嚇するような顔をこちらに向けて いる。横に坐った男が凄みをきかせながら話しかけてきた。そばで見ると、それほど 酔っているわけでもないようだ。

《おい、どこから来たんだ。ベトナム人か?》
《日本人だ》
《ドイツにどれくらい住んでるんだ?》
《二年近くになる》
《ここで何してるんだ。仕事か?》
《大学生として来ている》
《大学生?日本に大学は一つもないのか、おい?》

他の連中が卑らしい声を出して笑っている。平静を装いつつも、これまで耳にして いたあまりにも典型的なシチュエーションに、自分自身がいま置かれていることに少 なからず驚いていた。これが嘘偽りのない「外国人嫌悪」というものなのか。質問に できるだけ淡々と答えながら、難なく時が過ぎ去ってくれることだけを祈った。ひと とおり訊ね終わると、男はおどけた調子でさきほどの悪態を詫びるようなことを言い 出した。悪かったとは一言もいわず、ただ許してくれるかと訊いてくる。そんな態度 なら許せるわけがないだろうと思いながらも、適当に《気にしていない》というよう な答えかたをした。すると不意にフラッシュが焚かれた。犬を連れていた女が、この 応答を写真に収めている。あとで何かに悪用でもするのだろうか。嫌な気分がする。 やがて彼らはいっしょにいた友人にもからみ始めるのたが、幸運なことにそこで待ち わびたSバーンが到着し、急いで離れた車両に飛び乗ってそれ以上の難を逃れること ができた。

まよわず電車の席に腰を下ろす。緊迫した空気から解放されて、一度に疲れがでた ようだ。暖房のきいた車内はいつもよりずっと暖かく感じる。はじめて経験した本物 のスキンへッズとの遭遇。それが怪我もなく、この程度ですんだことを喜ぶべきなの だろうが、気分は途方もなく暗いままだった。わたしたちの向いに坐っていた女が嘔 吐するのを横目でながめなていると、無性に悲しい気持にとらわれた。同じドイツ人 として恥かしい、と友人はしきりに彼らのことで謝ってくれたが、それもほんの気休 めにしかならなかった。あの連中に対する直接的な怒りがなかったことがせめてもの 救いだが、例えようのない後味の悪さはなかなか消えなかった。多種多様な人種が蠢 くベルリンに住みはじめたのは昨日今日のことではない。このワイルドな街での生活 で少しはタフになったつもりだったのに……。
壁の崩壊から十年の長きを経てもなお埋まらない東西ドイツ間の隔たり。かつて冷 戦の対立の舞台であったベルリンには、今もなお数字に見られる以上に厳しい人々の 葛藤が色濃く残る。お互いが歩んできた体制の違い以上に、経済的な旧西ドイツ地域 の優位性、それになかなか縮まらない生活レベルでの差異が相互理解への弊害として 立ちはだかる。年来の高失業率がそれに拍車をかけている。外国人という弱者に向け られたそれらの社会不満のはけ口は、根本的な問題のすり替えでしかありえない。そ んなこと頭ではわかっていても、人々が実際に異質なものに対して抱く偏見や異文化 間の対立感情を取り除くことは容易ではない。極右だって何の理由もなしに外国人住 民を嫌っているのではない。もし私がただの無知な旅行者であれば、この夜のできご とでいっぺんにこの国が嫌いになり、ドイツ人一般に対するネガティヴなイメージを 持つようになったに違いない。無垢なセンチメンタル・ヒューマニズムでは到底解決 できない人間の悲しい本質がそこにはある。

社会に潜む病理、そして現代ドイツの暗部を肌で知ることになった夜であった。

2004年サイトリニューアルにあたり、ふたたび5年前の文章を読んでみて
この文章は友人のHIRO/Habibi君が書いたものです。ほんと、悲しい気持ちになる目に遭ってしまいましたね。大都市に行くと、ヤバイ雰囲気の人も 結構いるので、 その人が単独の時でも、仲間とつるんでる雰囲気のグループに会った時は特に、昼間でも私は道を横切って反対側に行ったり、場合によっては遠回りでも横道に 入って違う道へ行くようにしてます。アホな人達だとは 思いますが、変な言葉をかけられるのは気分が悪いですからね。Hiro君の場合、東ベルリンの夜中の駅・・・・。 しょうがなく降り立ってしまったようだけれど、なるべく避けたい状況ですね。私はパン屋弟子時代に 修業場所はS-Bahnで行けば乗り換ええなしで行ける場所でしたが、雨の日も雪の日も 雹の打ちつける日も片道45分かけて自転車通勤してました。人気のない夜の駅に立つより、自力で動ける方が安心だったからです。