第7話 パン職人の世界

修業も1ヶ月が過ぎようとしてい た頃、今思えば最初の難関とも言えることがありま した。 それは、右手首から肘までが腱鞘炎のように痛くなったことです。 仕事中は仕事に集中しているので痛みがちょっと気になる程度でしたが、 夜など、痺れの為に眠ることができないほどでした。
「痛い、痛い」と唸っている間にいつの間にか寝ているのですが、 なかなか寝つけないのと痛みで涙が出てきました。 肘を熱いお湯につけて血行を良くしてマッサージをしたり、 気休めみたいな痛み止めジェルなどを擦り込んだりしていましたが、 腕に筋肉がしっかりできてくるのと同時に痛みもなくなりました。 オフィスワークの腕から、体力仕事の腕に変わる瞬間だったのでしょうか。

工房での仕事、学校での勉強、そして家事。
たぶん疲れていたのと、ドイツ語ばかりでのまだまだ緊張続きの毎日がストレスになっていたのだと思いますが、 仕事中に全身に蕁麻疹が出て動悸が激しくなって貧血を起こしたりしたこともありました。 その時、無口なマイスターは本当に親身になって心配してくれて、
「もしも小麦アレルギーとかなら大変だ。
この仕事を続けていて、いつか病気で倒れたりしたら元も子もないよ。
昔、修業3年目で辞めた同僚もいたんだよ。 皮膚科でアレルギーテストを受けておいで。」
と言われた時には、私の根性の無さとかではなく、 こんな理由で修業を途中で断念しなければいけなくなったらどうしよう! と、本当に気分が暗くなってしまいました。

早速受けたアレルギーテストで、私は穀物に対して全くアレルギーがないことが分かりました。 病院から出てすぐにマイスターに報告に行くと、ものすごく安心したようで、喜んでくれました。
私はアレルギーが無かったことも嬉しかったけれど、 無口なマイスターが私のことをこんなに心配してくれたことがなんだか嬉しかったです。 だって、無理やり弟子にしてもらったみたいでしたし、 無口なマイスターとの数少ないドイツ語でのコミュニケーションでは、まだまだ不安なことは多かったですから。

さて、工房での仕事ですが、難しくないことからどんどん作業を手伝わせてもらうことができました。 意地悪をされたり、つまらない仕事ばかりを押し付けられたりというようなことはありません。

私は日本のドラマを見過ぎていたのでしょうか?
日本の見習い弟子の待遇って実際もひどいのでしょうか?
よく分かりませんが、
「みちえ!見ててごらん。こうやるんだよ。さ、やってみて。」
と、新しいことをどんどんやらせてもらう度に、
「え?こんなことも、もうやらせてもらっていいの?」
と、ちょっとだけ心の中で戸惑いながら、
『無駄な先入観なんて百害あって一利無し。やらせてもらえることはどんどんやるぞ!』
と、思って積極的にいろんなものに挑戦しました。

もちろん、最初はマイスターのお手本の通りにはできません。 ちょっと不恰好になってしまったりします。 日本のドラマだったら、師匠や兄弟子が「何やってるんだー!」 とか言って怒鳴ったりしそうなシチュエーションです。 こういう場合、私の見てきた限りでは、弟子を叱り飛ばすマイスターや職人はいません。 最初から完璧にできる人はいないし、 少しばかり不恰好でも売ることができるのであれば、そんなに目くじら立てて怒る必要なんてありませんもの。
挑戦させてもらう時に、変に怖がる必要がないからのびのびと学ぶことができました。 でも、学ぶとは言っても仕事ですから、ペースを乱して 自分のスピードで働くなんてことは許されませんよ。

「仕事がものすごく忙しい時、誰かが何かを失敗してしまった」
なんていう時には、焦る気持ちから皆の態度がキツイ感じになったりることはあります。
でも、「どうしてくれるんだよ!」
なんて怒鳴る人は一人もいません。怒鳴ってもしょうがないもの。
誰も失敗しようとして失敗することなんてありません。
そして、誰だって失敗することはあるのです。
大きな失敗だって、人を責めたりしてる暇があったら、皆で力を合わせて修正を試みた方が得策です。

そんな時には、
Wer hat das gemacht?(これは誰がやったんだ?)
Was hast du gemacht?(何をやったんだ?)
という質問が飛び交うのはお決まりです。 これは責任追及で聞いているというより、問題を追及するため。 しっかり問題点を把握しておかないと、失敗した本人のためにもなりません。
その上、ドイツ人の良い所は、 翌日になればみんなケロッとして陽気に仕事をしていること。 嫌な気分や人間関係を引きずっても良いことなんてありませんもの。
ドイツの他の業界がどうなのかは知りませんが、私のいるパン職人の世界はこんな感じです。 口の効き方が乱暴だったりはするけれど、根はいい人ばかり。楽しい仕事です。