第6話 パン作りという職業に足を踏み 入れた日

1999年9月1日 私のパン屋弟子としての人生の第一日目です。 途中であきらめずに、やるからには絶対最後までやり遂げよう! と思いながら、自転車をこぎました。

出勤するとマイスターがいつものように入り口を開けてくれて、 「グーテン・モルゲン」という挨拶でスタート。 修業生活を始めるにあたってのマイスターのお言葉なんてものは、全然ありませんでした。 とにかく日常という感じ。 私にとっては記念すべき日でも、パン屋にとっては普通の日で、ちゃんと売り物ができればいい訳ですから、まぁ当然ですが。 ドイツのこういうところ、変に仰々しくないのはとても心地よく、すぐに溶け込むことができて好きです。

さて、実際の仕事ですが、試用期間中から少しやらせてもらっていた 生地を捏ね機から取り出したり、生地を計ったり、焼きあがった菓子パンにアイシングを塗ったりするような失敗の少ない仕事の他に、 以前だったら掃除送りになっていた時間の作業にも手を出させてもらって、最後までジェンディスと一緒に工房で働くことができました。 まぁ当然といえば当然ですが。

マイスターは無口な人で、指示出しと間違い指摘以外にはあまり口を開かないので、 それ以外の話題が飛び出す時には、聞く方にとっては「いきなりやなぁ~」と、突っ込んでしまいたくなるようなことが多いのですが、 この日、作業を全て終えてみんなで掃除をしましょう! という段階になって、マイスターは突然、
「みちえは器具洗いが終わったら、あがっていいから。  すぐに職業訓練校に行って申し込みをして来て。  学校の事務室にはさっき電話しておいたから。」
と言い出して、私はいきなり職業訓練校へ行くことになりました。 特に予定は入れてなかったし、逆に前から聞いていたら少し緊張してしまっていたかもしれないので、これで良かったんですが、 『またマイスターってばっ!』と、苦笑せずにはいられませんでした。

ということで、私は学校へ申し込みに行きました。 職業訓練校っていう表現でいいのか分かりませんが、パン職人をはじめ、お肉屋さんやコックさんを目指す人の通う、食品栄養関係専門の高校です。 セクレタリーの人が忙しそうだったので、待っている間に掲示板などを見ていると、 去年のクリスマス前にケーキ作りのコンテストをやっている写真がありました。とっても楽しそう。 でも、さすが職人のたまごの学校。 写真の横には、「見た目、味、準備の手際よさ」といった、採点項目と得点がしっかり書かれておりました。

それにしても、みんなとっても若そうです。 同僚のジェンディスだって18歳。 私も10年ぶりに女子高生になるのですが、こんな若い子達の中で馴染めるのかちょっと不安です。 「そんなこと気にして修業ができるか!  アジア人は若く見えるんだから、大丈夫!!」 と、変に自分を勇気づけました。

セクレタリーの人とお話をして、私は毎週月曜日午前8時から午後3時まで、4つの授業を受けることになりました。 申込書などは特になく、次の月曜日に登校してくる時には証明写真を持参して、学生証を作ること。 教科書等も特に買う必要はなく、筆記用具だけ持参すれば良い、ということでした。 なんだか簡単すぎて、逆にびっくりしてしまいました。

そして、月曜日。職業訓練校初登校です。 クラスに入ってみると、若い男の子ばかり! 端っこの方に女の子が3人だけ座っていたので、そこに一緒に座らせてもらいました。 男の子達も、まだまだ知らない者同士という感じで、結構みんな神妙に座っていました。 もちろん、クラスに一人はいる!というタイプのお調子者タイプの子が、すぐに私達のところに話しかけてきて、 私にもいろいろちょっかいを出してきましたが、あまりにも女の子が少ないため、見た目から思いっきり外国人の私も彼女達の仲間!という感じで団結して。 彼女達には初日から親切にしてもらいました

しばらくすると、先生が入ってきました。 先生はクラスを見回して、
「これからは2年生。更にしっかり勉強するように!」
と、いうようなことを言いました。 マイスターは口数が少ないので、ベルリン訛りのドイツ語をこんなに沢山、更にベルリン独特の早口で聞くのは初めてだったので、 先生の方をしっかり見て、一生懸命言葉を理解しようと耳を傾けました。

ちなみに、私が始めた修業というのは、一般には3年間やるものなのです。 しかし、いろいろな条件を考慮して最大1年半まで短縮することができるシステムになっています。 修業は手に職をつけるだけでなく、社会的なことを学ぶ場所でもあるので、 日本で大学を卒業して社会経験のある私は、一年目を免除してもらえることになったのでした。 また、普通に一年目から修業を始めた人でも、成績が良い場合は、半年早く卒業試験を受けることもできます。

修業というのは、仕事と職業訓練校がセットになっているもので、 工房の仕事だけをしていても職人にはなれませんし、パンの学校に通うだけ、ということもできません。 学校の授業料は国が負担しているわけで、それは弟子としてものすごい低賃金でお仕事をしながらも税金を払い、 立派に職人になって税金を払うということで循環しているものですから、
「ドイツの学校(大学)ってタダなんだって。留学したいな。」
と、簡単に言う方が日本人の中にはいらっしゃいますが、その点考えていただきたいと思っています。

さて、授業ですが、穀物をはじめ材料についての知識を広げたり、 パン作りを科学的に掘り下げて考えていくような技術の授業が90分×2時限。 難しいけれど、とても面白い授業です。 その後は、お昼休みを挟んで、課題にあわせて材料を計算したり、生地の膨らみ率を計算したりする専門計算の授業が90分。 そして、税金や社会保険、社会のしくみについて学ぶ政治の授業が90分。

学校とは言っても、普段は仕事をしている生徒ばかりで、先生もその点はよく分かっているので、 宿題はありませんし、授業中に一度に進む内容もそう多くはありません。 でも、私は必死で聞いていても全て理解することができないので、先生に図書室を教えてもらって、 いろんな本を借りてきては、家で予習復習を徹底してやりました。